豊橋が発祥の地と言われる手筒花火は、直径10cm、長さ約80cmの節を抜いた孟宗竹に縄を巻き締め、黒色火薬に鉄粉を加えた火薬を詰めて噴出する東三河地域独自の花火です。
揚げ手が筒を脇に抱えるように持ち、巨大な火柱を噴出させ、最後に「ハネ」と呼ばれる炎が大音響とともに足元に吹き出す勇壮な花火です。五穀豊穣、無病息災、悪疫退散、家運隆盛、武運長久を祈る奉納行事として豊橋市内の数多くの祭礼で揚げられています。また、この手筒花火は、揚げ手が自ら竹の切り出しから火薬の仕込み、詰め込みまですべて行うことが特徴です。
手筒花火の原型は、情報の伝達手段である「狼煙(のろし)」と言われています。市内にある吉田神社の古文書に「吉田天王社の祭礼花火に始まる」「永禄3年(1560年)、当時の吉田城城代により花火が始まった」とあり、祭礼で花火が揚げられたと記録されています。全国的にもかなり古い歴史を持ち、なかでも手筒花火は、吉田神社が発祥の地と言われています。
戦国時代に登場した花火は、江戸時代の元禄期以降庶民に広まったと言われ、この地域が盛んになったのは、徳川家康が三河衆に火薬の製造を任せたことが花火の発展につながったとも言われています。
手筒花火の原型は情報伝達手段であった狼煙ともいわれています。火薬が伝わって以降、筒のようなものに火薬を詰め、煙を上げるものに変化していったそうです。手筒花火は孟宗竹という種類の竹を使います。節を抜いた竹に縄を巻き、火薬を詰めて奉納する。この一連を揚げ手自らが行う東三河地域特有の花火です。竹の切り出しから放揚までの技術は年配者(経験者)から年少者(初心者)へと継承されていきます。筒の中の構造は、直径約5センチの噴出口から点火用の火薬、小火薬、中火薬、大火薬と4層になっており、最後に丸い「ハネ粉」を詰めて新聞紙で抑え込みます。この作業は筒を逆さにして行われます。手筒花火の点火は揚げ手と点火者との2人で行われます。点火者は、揚げ手を指導してきた年配者が必ず行います。手筒花火の技術を厳しく指導してくれた人だからこそ、安心して自分の筒に火をつけてもらう。この究極の信頼関係を制作の行程で、また年月をかけて築いていくのも大切な継承事と言えます。